Revival
第三章 再会・苦しみ
見るに耐えない、と誰しもが彼女を見てそう思った。
太陽に照らされし豪奢な金色の髪、天色の大きく澄んだ瞳は彼女の愛らしさと神々しいまでの気品の具象であった。
だが、今の彼女の瞳は色を失い虚無を彷徨っており、白き麗色の輪郭は蒼ざめている。
何を見つめるわけでもなく、ただ視線を宙に漂わせる。
今まで彼女の視線は常にある人を捉えていた。
手が届くほど近い距離にいても、戦火が二人を離れ離れにしても、彼女はその人を常に見ていた。
だが、今の彼女の瞳は何も映してはいない。
その人の背中を目で追うことが出来なくなってしまったからだ。
「・・・ラケシス様・・・」
口に出してラケシスの名を口ずさむ蒼き槍騎士。
彼にとって美姫のこの表情は見るに耐えなかった。
彼は不本意だったが、今まで彼女の泣く姿、耐える姿を見てきたが、今回ほど悲痛な表情は初めてだった。
彼女には天に輝く太陽を思わせるような笑顔こそ合うと思うのに。
グラン歴758年夏。
アグストリア全土を揺るがした内紛はグランベル王国シグルド軍の介入により大きく様相を変えることになった。
征討の対象となったノディオン王国と連携したグランベル王国は次々とアグストリア各国の軍勢を打ち破り、ついにアグストリアの首都にて国王シャガールの立て篭もるアグスティまで辿り着いた。
既にアグスティを守護する戦力は瓦解しており、さしたる抵抗のないままグランベル・ノディオン連合軍はアグスティに入城する事ができた。
場内に入ったシグルド達とノディオン王国王妹ラケシスは直ちに王宮に向かい、アグスティの王シャガールの捕縛とノディオン国王エルトシャンの救出を行おうとした。
妹は度重なる戦乱に疲労を隠せなかったが、ようやく最愛の兄を助け出す事ができる、兄の顔を見ることができる喜びに彼女は喜びを体中に露にしていた。
だが、シグルド公子らグランベル軍の人々と王宮に入ったラケシスの前に立ち塞がる人物があった。
他の誰でもない、ラケシスの兄エルトシャンその人である。
「あ・・・ああ・・・」
「・・・・・・・・・」
先頭に立って大ホールに入ったラケシスの前に姿を現したエルトシャン。
ラケシスと同じ黄金髪を持つ精悍にして陶磁器のような美しい顔立ちの青年。
透き通るような天色の瞳はラケシスのそれと瓜二つだったが、大きく丸みのある彼女と比べると鋭さと形容しにくい冷たさを称えている。
絶世の美姫と謳われながら愛らしさも併せ持つラケシスの兄に相応しく卓絶した美貌を誇る青年だったが、戦場の名将としての誉れ高い彼は『獅子王』という異名に相応しい風貌をも兼ね備えていた。
(・・・やっと会えた・・・)
ようやく自分の居場所に帰ってくることが出来た。
幼き頃に出会った異母兄の、最愛の人の隣こそが自分の居るべき場所、帰るべき場所。
戦乱によって離れ離れになってしまったが、もう自分はエルトシャンの側を離れない。
それが自分にとってこの上ない幸せであり、今までの自分が生きてきた糧でもあるのだから。
「エルト・・・エルトにいさまぁ――!!」
シグルド達たちの目も憚らず、大きな声で兄の名を呼ぶ妹。
自らの名を呼ばれたエルトシャンの目に暖かな色が燈るが、一度目を閉ざす。
しばらくの沈黙の後、再びエルトシャンは開眼したが、そこには戦慄の冷たさを持った獅子王の瞳があった。
彼は自らを呼んだ妹の呼びかけを無視し、ラケシスの背後に控えていたシグルド公子を見据えて吼えた。
「シグルド!!貴様一体どういうつもりだ!?貴様はグランベル軍の指揮官として大軍を率い、アグストリア各地に兵を進めたというではないか!俺がここにいる間にアグストリアはグランベルによって制圧されたというのか!?返答によっては貴様といえでも容赦はしないぞ!」
鋭すぎるエルトシャンの怒号にシグルド軍の面々は激しく動揺した。無論、彼らと行動を共にしていたラケシスも体をビクと振るわせた。
彼は自分が牢に入っている間、シグルド率いるグランベル王国がアグストリア各諸侯を討ち滅ぼし、また宗主国アグスティを制圧された事に激しい憤りを噴出させたのだった。
自分の呼び掛けを素通りしてシグルドに話し掛けた兄にラケシスは違和感を覚える。
ラケシスの後ろにいたシグルドは前に出てエルトシャンに答える。
「エルトシャン、まずは君の無事を喜びたい。そしてアグストリアに兵を進めた事について誤りたい。だが、今回、アグストリアの諸侯が不当に君の国ノディオンを攻撃し、グランベルに敵対しようとしたのは事実なんだ。だから、仕方なく兵を進めたんだ」
親友の無事にシグルドは喜び、柔らかな口調でエルトシャンに今までの成り行きを伝えたが、それは彼の激しすぎる炎を抑える事にはならない。
「それに乗じてアグストリアを征服しようとしたのか!?シグルド!!いくらお前でも返答によってはタダでは済まさないぞ!」
「そんな事はない!私達にはアグストリアに対する野心はない!」
エルトシャンの剣幕に押されていることを感じたのか、シグルドも声も張り上げて反論する。
無論、相手がそれで攻勢を緩めるはずもない。
「なら、どうしてアグストリア各地を制圧したままなのだ!目的を達した以上、すぐに兵を引くのが道理だろう?」
「それは仕方がないだろう。アグストリアがグランベルを攻撃しようとしたことは事実なんだ!その危険性が取り除かれるまで、残念だが駐屯するしかない。」
「そのまま居座るつもりじゃないのか?グランベルはこの機会にアグストリアの併呑を企んでいるんじゃないのか?どうなんだ・・・!」
シグルドはこの問いに返答できない。
既に彼が占領したアグストリアの土地にはグランベルから役人が派遣され、新しい支配者の如く統制を始めていた。
エルトシャンの批判は当然であり、誰が見てもグランベルに占領され、支配されようというのは明らかだった。
シグルド自身、そのような意図をもって戦いを始めたわけではなかったが、自体は彼の望まぬ方向に加速しているようだった。
彼は自分自身の価値観と親友に対する友情で大きな声で言い放つ。
「エルトシャン!確かにアグストリアは現在、我がグランベルの占領下に置かれた。これは事実だ!だが、それはアグストリア併合の野望からではない!あくまでアグストリアのグランベルに対する脅威を取り除くためだったのだ!脅威が除かれた事が確実になれば我々は本国に戻る!もし、グランベル本国がこのままアグストリアに居座り続けるよう指示しても、私は絶対にそれを認める事はしない。何年掛かろうとも必ずアグストリアをアグストリアの人々の元へ返す!だから、それまで待ってくれ」
エルトシャン自身、シグルドの言動と人格に少しの疑問も持ってはいない。
彼は今、自分が宣誓した通りの行動をしてくれるだろう。
だが、グランベル本国がアグストリアをすんなり手放すとは考えにくく、シグルドはこのままアグストリアに留まれば己の正義と国への忠誠の板ばさみに遭い、苦しむ事になるだろう。
エルトシャンにはそれが予測できた。
「・・・分かった・・・お前を信用しよう。だが、無期限に待つわけにはいかない。一年だ。一年間、我々はグランベルの心ある行動を待とう。それまで私はアグストリア北部のマディノ城とシルベール城でシャガール王を御守りする。もし、約束を違える様なら俺が現在シルベール城に駐留している我がノディオンのクロスナイツを率いてお前たちをこの地から追い出すだろう。覚悟しておけ」
これがエルトシャンのできる最大限の譲渡だった。
アグストリアがグランベルに敵対行動を取ったのは事実であり、こちらに非がないわけではない。
だからと言って、グランベルによる占領を許す事はアグスティ王家に忠誠を誓うノディオン国王であり。一人の騎士である自分としてはできない。
今、このアグスティ宮殿に身を潜めているシャガール王を護りつつ、アグストリアを維持しなくてはならなかった。
「約束する。一年経ったら我々は本国へ戻る。だから、それまで私を信じてくれ!エルトシャン」
二人の間で急速に威圧感が収まっていく。
とりあえずと言う不安定な形ではある物の、同意に至る事ができたのだ。
傍らに控えていたラケシスはほっと胸を撫で下ろす。
ようやく最愛の兄と再会できたというのに、親友同士が牽制し合う会話など聞きたくは無かった。
彼の胸に抱き付きたい、抱きしめてもらいたい、あの人の澄んだ瞳で見つめてもらいたい。
会えない合間に蓄積された気持ちが激流とも形容できる勢いを持って噴出そうとしていた。
「・・・ラケシスよ・・・そしてお前は一体、なにをしていたのだ?」
あまりにも冷たい声でラケシスの名が綴られる。
一瞬、誰がラケシスの名を呼んだのか、この間にいる誰もが即断できなかった。
まして、その声がエルトシャンから発せられた物だとは妹ラケシスすら分からなかった。
いや、彼女だからこそ、この冷たい声に反応できなかったのかもしれない。
「え、エルト兄様・・・?」
「お前は何をしたか分かっているのか?お前はノディオンの危機において不用意にグランベルに助けを求めたため、彼らをアグストリアに引き込む原因を作ってしまったのだ!」
「そ・・・そんな!?」
エルトはラケシスがノディオン王国と兄を助けるためにシグルド、つまりはグランベルに支援を求めた事を責めているのだ。
彼女の行動はノディオン王国を守る、そしてエルトシャンを救出するという目的のためなら確かに妥当であっただろう。
しかし、元々、アグストリア内のおけるグランベルを攻撃すべしという強硬派とグランベルとの関係を維持するという穏健派との対立が事の発端だった。
穏健派のエルトシャンは強硬派であり主君であるシャガール王に囚われる事になったのだが、それでラケシスがグランベルに救援を要請したためグランベル王国とアグストリアは戦争状態に突入してしまったのだ。
つまりラケシスの行動が結果的には穏健派であったエルトシャンの望まない戦争を呼んだことになったのだ。
ラケシスを初めとするノディオン王国の人間にとってはノディオン王国とエルトシャンの生命を守る事は何よりも優先される事だったが、ただ一人、ノディオン国王エルトシャンにとってはノディオン王国を含むアグストリア諸侯連合の全体の平和を考える必要があったのだった。
言い過ぎかもしれないが、ラケシスの行動はノディオン以外のアグストリア人にとっては売国奴と言われても仕方ない物だった。
「し、しかし・・・私はノディオンを守るために、そしてエルト兄様の命を・・・」
「ラケシス、お前はノディオンの王族なのだ。確かに国を守る責務はある。だが、同時にノディオンを含むアグストリア全体の事を考えねばならなかったのだ。その意味ではお前の判断はアグストリアをグランベルの軍靴に踏み躙られる事態を呼び込んでしまったのだ・・・」
「・・・そんな・・・私は・・・私・・・」
ラケシスの心に恐怖という名の雨が降り注ぎ始め、冷たく湿らせていく。
彼女は兄を助けるために最善の手段を尽くし、戦い続けてきた。
しかし、その事はいけなかったのか?
自分は「エルトシャンの妹」として正しくない行動を取ってしまったというのか?
「エルトシャンの妹」としてのみ存在できると思っているラケシスにとっては彼の望まない事をしてしまったのは自分の居場所を失う事と同意だった。
エルトの妹、王族としての自分、それが彼女の中で最愛の兄の一言によって崩れはじめる。
「ハイラインがノディオンを攻撃した事については確かに仕方なかったかも知れない。ノディオンを守るためにお前は最善な手段をとったのかもしれない。だが、その後、俺を助けるためにグランベル軍と共にアグストリアを蹂躙したのは明らかにやり過ぎだ。お前はもっと別の手段で事態の好転を計るべきだったのだ」
血が引いていくのが体感できた。
目の前が暗くなっていき、不快な耳鳴りが鳴り響く。
急速に視界が狭くなっていく。
自分の行動は誤っていたのか?
いや、自分は兄の望まない事をしてしまった。
ラケシスにとっての一番の禁忌であった。
その後もラケシスに対する非難は続き、さらに彼女は打ちのめされていく。
その光景を後ろで眺めていたフィンは拳に力を込め、怒りに震えていた。
彼はラケシスが如何に危険な目に遭ってきたかを知っている。
彼女が戦い続けてきた事を知っている。
そして兄を想って涙する事を見ている。
彼女がどれだけエルトシャンのために頑張ってきたかを理解しているつもりだった。
それなのにこの兄王はただ妹を非難するばかり。
(貴方はどれだけラケシス様が苦しんだのかを知っているのか!?この方の美しい顔が悲しみを露にしていたのを知らないのか?)
フィンも一国の騎士である以上、エルトシャンの言いたい事が理解できないわけではなかったが、彼にとっては意識する異性であるラケシスを悲しませるエルトシャンが許せなかった。
しかし、同じ場に居合わせているエルトシャンの親友、シグルドやキュアン等には別の見解があった。
エルトシャンは確かに鋭く、容赦のない男であったが、これほどまで理不尽な事を言ってのける男ではない。
特に大切にしてきたラケシスに対してなら尚更だ。
彼を良く知っている二人にとっては、エルトシャンがラケシスを故意に非難しているように見えた。
一体、エルトシャンは何を考えているのか?二人の疑問であった。
皆の疑問と怒りを浴びながら、エルトシャンは運命の一言をラケシスに掛けた。
「私はこのままシャガール王を守るためマディノ城西方のシルベール城に移る。だが、お前はここに残れ!」
「な、何故です!?私もエルト兄様とご一緒に・・・」
「既にお前はグランベル軍と共に行動を共にしてしまった。アグストリア、つまりはシャガール王の敵に自らなったのだ。そのお前が俺について来てはシャガール王も許せないだろうし、私もシャガール王を守るのに何かと不都合が出てくるだろう。だから、私について来るな」
ラケシスの視界が暗転する。
自分の足元が崩れ、宙に漂っているかのように錯覚してしまう。
だが、口は反射的に言葉を出し続ける。
「い、嫌です・・・ごめんなさい!私が間違っていました。謝りますから、お側においてください!!」
このまま自分の居場所がなくなってしまう。
自分を包み込む圧倒的な恐怖と危機感がラケシスを狂わせていく。
「ごめんなさい!エルトお兄様ごめんなさい!!私は謝ります。私が間違っていました!ですから、許してください!お側においてください!お願いです!!」
悲痛で精一杯な声を上げる彼女。
思考の末に導き出された言動ではない、とにかく謝らなくては、許してもらわなければいう危機感が卑屈なまでに自分を貶め、情けない呼び掛けになっていた。
慌てふためき、ひたすらエルトシャンに媚びるラケシスの姿を周囲の人間は驚きと憐れみの目で見つめた。
フィンも同じだったが、彼の場合、ラケシスに対する感情が他の人とは異種の為、悲しくなっていた。
貴方はそこまでエルトシャン様のことになると見境がなくなってしまうのでですか?と…
それが本当の、私が心惹かれた貴方の姿なのですか?と…
「・・・・・・駄目だ、お前は残れ」
「!?」
言葉としては決して強いものではない。
だが、それは明確なラケシスの申し出の拒絶であった。
彼女にとっては死刑宣告にも等しい答え。
拒絶された。
初めてお兄様に拒絶された。
今まで喧嘩することはあったが、最後にはいつも仲直りをしてくれて笑顔を見せてくれた。
自分が落ち込んだ時は励ましてくれて、自分の悩みはいつも聞いてくれた。
それなのに今、自分を兄は受け止めてくれない。
ラケシスは崩れ落ち、膝を地につけてしまう。
その目は光を無くし、口を半開きにして呆けてしまっている。
初めての絶望に心身を苛まれる彼女の姿がそこにあった。
フィンはもちろんのこと、周囲にいた人間、そして原因であるエルトシャンすら驚きの表情と憐れみの視線を送る。
だが、エルトシャンはすぐに厳しい表情を作ると、翻ってラケシスに背を向ける。
皆の視線が背に刺さりながらも、顧みず去ろうとするエルトシャン。
虚ろな瞳にその光景が入り込んできたのか、嘆きの妹は最愛の人へ最後の呼び掛けを行った。
「エルトにいさまあぁぁ――――!!」
だが、その声にエルトシャンが振り返ることはなかった。
アグストリアに表面上は平和が訪れた。
アグストリアの南半分をグランベルが制圧したままとは言え、両軍は槍を納め、休戦状態に入った。
グランベルに対する反発をアグストリア人民は抱いていたとは言え、戦いの終りを人々は歓迎していた。
アグストリアの盟主であるシャガールはアグストリア北部、オーガヒル島を見据えるマディノに移り、仮王宮を構えた。
またエルトシャンはノディオンの精鋭が駐屯していたマディノ西方のシルベール城に移り、マディノとグランベルが制圧するアグスティの境界線を警戒し、不測の事態に備えていた。
一方、グランベルは本国より制圧したアグストリア各地に行政官を派遣し、事実上、統治を始めていた。
これにはマディノ・シルベールも怒りの声を挙げていた。
エルトシャンと約束をしたグランベル王国アグストリア駐留軍のシグルド公子はこれに講義したが、彼の権限は軍事面にのみ制約されており、本国の方針に意見する事は叶わなかった。
そのためアグストリアとグランベルの溝は一向に埋まっておらず、緊張は日増しに高まっていた。
一方、ラケシスはアグスティに留まっていた。
彼女に同行したイーブら三兄弟を始めとするノディオン軍は戦いに疲弊していたためノディオンに帰還していた が、ラケシスはシグルド達と行動を共にしていた。
現在、アグストリアを占領しているグランベル軍が司令部を置いているのがアグスティである。
講和が結ばれたとは言え、このままアグストリアがグランベルに併呑されるのは許されないと言うのがアグストリアの人々の願い。
彼女はグランベル軍とのアグストリア返還交渉を続けるためアグスティに留まっていたのだった。
少なくとも、グランベルと協力した彼女にはその責任があった。
ラケシスがアグスティ城に留まっている間、表面上は落ち着きをもって仕事をこなしていた。
シグルドたちとの調整もよく行い、グランベルの影響下に入ったノディオン城の運営も任されていたが、よく彼女は頑張っていた。
表向きはあの時の慟哭を忘れ、精励しているように見えた。
シグルドやその周囲の人間も彼女が元気を取り戻したのだろうと思っていた。
だが、ただ一人、フィンだけは彼女の悲しみが露ほども晴れていないことを知っていた。
彼はラケシスがどれだけエルトシャンの事を思い、戦ってきたのかを知っている。
彼女がどれだけ無理を重ねてきたのかを近くで見てきた。
そのラケシスを襲った兄の辛い仕打ち、彼女がどれだけ傷ついたのか想像がつく。
それでも彼女は精励していた、恐らくは悲しみを紛らわすためと、もう一つ、再び努力を重ねればエルトシャンに認めてもらい、許してもらえるかもしれないという思惑もあるのかもしれない。
あまりに卑屈だとフィンは想いを抱く。
彼女は最愛の人を助けるために努力した。問題はあったかもしれないが、誤った行動はしてないはずだ。
なぜ、そこまで卑屈にならなければならないのだ?いけないのはラケシスの想いを無碍にしたエルトシャンだろう。
それなのに彼女はエルトシャンに従い、求めようとしている。
拒絶され、不当に非難されても彼女はエルトシャンから離れようとはしない。
愚かしい事だ。と思うと同時にそれが人を愛することなのか?と青年槍騎士は考えていた。
「ハアァ――――!」
「くっ!?」
黒髪の美剣士の鋭い剣技が金髪の姫君に対して襲い掛かる。
その姫君は何とか手に持つ剣で彼女の攻撃を防いでいる。
右に左に自分に迫る剣を彼女も身を翻し、剣を繰り出す事で渡り合っていた…
今、ラケシスはシグルド軍に身を寄せている(とはいっても非公式ではあるが)イザーク王国のアイラ王女と広場で剣を合わせていた。
ラケシスはこのアグスティ城に留まるようになってから、シグルドとその仲間たちとの交流を持つ時間に恵まれた。
それと同時に最近になってラケシスは学問だけではなく、馬術や魔法、各種武芸を積極的に習得しようとしていた。
武門の家であるノディオン王家の出であるから前々から剣を初めとする武芸を教え込まされてきたラケシスであったが、最近ではその情熱はさらに高まっている。
戦乱を直に経験し、戦うための力を欲しているのだろう、と言うのが周囲の者達の見解だった。
ラケシス自身は何も語らず、黙々と修行に励んでいた。
今回のアイラとの剣稽古も、彼女がイザークにおいても屈指の剣士であるからラケシスの方から申し込んだことであった。
二人の体が高い昼の太陽に照らされ、足元に映し出された影が激しく重なり、動く。
それは二人の稽古の激しさを表していく。
アイラは持ち前の速さと剣の繰り出しでラケシスを圧倒する。
一方、ラケシスは防戦一方で何とかアイラの攻撃を防いでいた。
しかし、その事実自体が驚愕すべきものである。
アイラは剣聖オードの血を引くイザーク王家の王女であり、超一流の剣士である。
その彼女と打ち合って、まだ一撃も許していないのはラケシスの素質の一片が露出し始めているのかもしれない。
軽い驚きを感じたアイラではあったが、すぐに表情は不敵な笑みへと変化していく。
徐々に攻撃を激しくして、さらにラケシスを圧迫していく黒髪の美剣士であった。
「行くぞ!」
短くアイラが叫んだと同時に彼女の右腕が視界から一瞬消えたかと思うと、五つの剣戟が同時に襲ってきた。
アイラが得意とする流星剣と言う秘技である。
放った方はいくらノディオンという大陸屈指の武家の出身である相手とはいえ、今までまともに戦った経験がない深窓の姫君に自分の技が防げるはずはないと考えていた。
だが、ラケシスは自分でも知覚してない領域で動いていた。
一つ目の突きは体を逸らして避け、二つ目の振り下ろしを飛び退いてやり過ごす。
さらに襲い掛かってくる三撃目、四撃目は手に握る剣を持って一瞬の間に防いだ。
だが、最後の切り上げだけは防げなかった。
アイラの最後の一撃は閃光のような勢いを持ってラケシスの右手に襲い掛かる。
カキン!という音とともにラケシスの握っていた剣が宙を待った。
ゆっくりと落ちてくる剣を見つめながら勝敗は決した、と両者は納得した。
「正直驚いた。ラケシスに私の流星剣をここまで防がれるとは」
戦いを終えて剣を置き、手拭いで流れた汗を拭う二人。
アイラは自分の剣が彼女に防がれるとは思っていなかったため、流星剣が四撃も防がれたことに驚きを隠せなかった。
しかし、ラケシスとて武門の家に生まれ、幼き頃より剣と慣れ親しんでいる、さらには黒騎士ヘズルの血統なのだ。
それだけの力は十分持っていても不思議ではない。彼女を見くびっていた自分をアイラは恥じていた。
「・・・たまたまです」
しかし、ラケシス自身は浮かない表情を浮かべている。
現在、負け知らずのシグルド軍の中で実力のある戦士を5人挙げるとするなら、間違いなく名が挙がるであろうアイラの攻撃をあれだけ防いだのだ。
もう少し喜んでも良いだろうに、とここに他の誰かが居合わせたらそう思うことだろう。
「・・・こんなんじゃ駄目・・・」
「・・・・?」
汗を拭いながらポツリと何かを漏らすラケシス、つい先ほどまで剣を合わせていたイザークの王女はその言葉を聞き取ることが出来なかった。
ラケシスはアイラに剣の稽古に付き合ってくれたことへの感謝を述べると、すぐに今度は政務があると言って広場を後にした。
「忙しい人だ・・・」
アイラはラケシスの背中を見つめながら、一人、帰り仕度を始める
その彼女に再び、声をかける人物がいた。
「あら?アイラ・・・ラケシスと稽古していたって聞いて来たんだけど・・・?
レンスター王国王子キュアンの妻、エスリンの姿がそこにあった。
「ラケシスなら政務があるからと言って、すでにこの場を去っておられるが・・・何か用だったのか?」
「いえ、別に用なんてないけど・・・」
確かに用はなかったが、エスリンは彼女を探していた。
最近のラケシスは働きすぎを心配し、声を掛けようとしていたのだった。
(やっぱり、エルトシャン様の事を気にしているのかな?)
エスリンはエルトシャンがラケシスを拒絶した際はその場に居合わせず、後になって話を聞いた。
人一倍感が強い彼女にはラケシスの最近の鬼気に迫るような精進の原因がエルトシャンにあることを見抜いていた。
愛されたい、愛したいという自分の気持ちを正直に貫ける距離に居るためには、居る資格を得るためには相応しい自分でいる必要がある。
彼女は自分をさらに磨き、エルトシャンの近くにいたいのだろう。
(自分も同じだった…)とエスリンはラケシスの今にかつての自分の姿を重ねていた。
そして彼女がこれからいかに苦しみ、出口のない迷い込むかもしれない明るくない未来についても…
彼女はアイラに別れを告げるとノディオンの姫を探しに出かける。
「ラケシス様、少し休まれたほうがいいのでは?」
「私は大丈夫です。ふふっ、これでも色々と忙しくて…」
執務室へ急ごうとするラケシスに声を掛けたのはフィンだった。
ノディオン攻防戦以来、親しくしているフィンにラケシスは笑顔で応える。
「しかし、最近のラケシス様はあまりに無理をし過ぎです。ノディオンの戦いの時も無理をなさって体調を崩されてしまったことをお忘れではありますまい。もう少し自重したほうが良いのでは?」
「大丈夫です。今は戦いの緊張感の中とは違います。これでも結構、楽しみながら日々を過ごしているんですよ」
忙しさを自らに課すことに楽しみを見出しているとでも言いたいかのようにラケシスは微笑む。
しかし、彼女に思いを寄せているフィンはそんな言葉に騙されない。
この1ヶ月、ずっと彼女のことを見つめ続けてきたのだから。
「無理はいけません・・・ラケシス様は明らかに無理をなさっています」
「何度も言わせないでください。私は無理など・・・」
「してらっしゃいます!」
フィンの中に抑えようもない黒い怒りが満ちてくる。
自分を飾る彼女の事が、本当はエルトシャンに会えないこと、仲が修復していないことに戸惑い、悲しみ、もがいているだろうに。
それを気丈に振舞うことは彼女にしては当然なのだろうが、それが分かるからこそ、苛立つ彼。
心のどこかで自分にだけは正直な姿をして欲しいと願う、一人の少女を愛する男の願望がそこに介在している。
「どうしたのですか?フィン?」
あからさまに異様な雰囲気の彼にラケシスは同調せず、ただ、不可思議な目をするばかり。
彼女の冷めた反応にフィンは少し気が削がれたのか、一息ついて再び彼女に話しかける。
「申し訳ありません。でも、最近のラケシス様は本当に頑張ってらっしゃいますから、逆には心配なのです。無理をされているのではないかと…」
「可笑しなフィン…私自身が大丈夫と言ってますのに…」
フィンの心理を知らずに無垢の笑いを彼に向ける美姫。
寂しいという名の矢が彼の胸を射抜く。
一人の少女を愛してしまったフィンにとっては、この距離がなにより辛い。
しかも騎士と姫という間柄なら尚更だろう。
そして、彼女には意中の男性がいるのだ。
その後、二人は別れた。
フィンの複雑な表情にラケシスは疑問を抱いたが、深く追求するという欲求は生まれず、そのまま再び、足を動かしていく。
一方のフィンも彼女を振り返ることなく、足を速める。
空しい疲労感に身を苛まれながら。
そして遠ざかっていく二人の距離を見つめる一人も女性。
(フィン・・あなた・・・)
エスリンであった。
ラケシスを追ってきた彼女は偶然にも二人を見つけ、その会話を不本意にも物陰から聞く形になってしまった。
そして、あの堅物フィンの様子から、彼がノディオンの姫君に対して恋心を抱いていることを悟る。
彼のことをよく知る彼女とって、それは喜ばしいことではあったが、逆には胸が苛まれる。
ラケシスは王女、フィンは一介の騎士。身分が違いすぎるという意見が出るだろうが、彼女の言いたいとはそうではない。
ラケシスは一人の女性として、エルトシャンを愛している。
愛する人がいるラケシスを想っても、届くことはない。
無論、フィンに自分の心を彼女に届けるつもりがあるかどうかは分からないが。
しかし、どちらにしても悲恋になることは逃れ得ないだろう。
自分たちの大切な臣下、大切な弟に等しい存在フィン。
彼の恋が悲しい物になるだろうと予感しながらエスリンは憂鬱になる。
(でも・・・それでも・・・)
自らの兄を愛するという禁忌な行為に身を委ねるラケシス、一人の男を愛する女性に適わぬ思いを抱くフィン。
この二人がこのままではいけないとエスリンは感じ、行動するのだった。
アグスティ城の一室、彼女が仕事を行うために割り当てられた部屋に戻った時、アグストリア駐留軍を統べるシグルドが彼女の帰りを待っていた。
「ラケシス、待っていたよ」
「これはシグルド様・・・」
一礼をしてラケシスはシグルドを先に座らせ、彼女も彼と向き合う形で座る。
シグルドにしてもラケシスにしても、親しい間柄で堅苦しい会釈などをする必要もなかったが、この部屋にシグルドが訪れたのは公務であるだろうから、それなりの形は必要だった。
座った後にシグルドは用件を打ち明けたが、その内容にラケシスは驚愕した。
彼の話というのはグランベル占領地域の返還問題についてだった。
彼は何度もアグストリアからの撤収をグランベル本国に訴え、交渉を続けてきた。
そして今回、とうとうグランベル本国はアグストリアからの撤収を認める返事を送り返してきたが、それには条件が付けられていた。
「ノディオン公国のクロスナイツの解散と、マディノ城と我がノディオン城にグランベルの駐留軍を置くことが条件というのですか?それはあまりに酷い条件ではありませんか!?」
全土からのグランベルが手を引く代わりに、現在ではアグストリアに残存する唯一の組織的な武力であるノディオン・クロスナイツを解散するということは、アグストリアが自衛のための武力を放棄することに等しい。
また、グランベルが陸路でアグストリアに至る路、湖北街道のアグストリア側出口であるノディオンに軍を駐留させることは陸路でのいつでも軍隊を流れ込ませることが出来る。
そして、オーガヒル海賊に対する警戒のために建設されたマディノ城はアグストリア海軍の根拠地であり、グランベル・シレジア・オーガヒルが接する北洋の重要拠点の一つである。この地がグランベルに渡るのは北洋が制海権をグランベルが手中に収める事になり、海路でもいつでもアグストリアに進行できる事になるのである。
即ち、アグストリアは武器を手放した上で、相手から何時でも攻撃を受ける立場へと落とされるのである。
主権を侵害する条件だった。
「そのような条件、アグストリア人として許すことは出来ません!」
「確かにあまりに酷い条件だ。だから、私は本国と交渉を続けているのだが、どうしても首を縦に振らない。そこでなんだが・・・・」
シグルドの表情が深刻となる。
「私はクロスナイツの解散させることで、他の条件を何とか緩和できないかと思っている。本国がこういう条件を付けてきたのは、アグストリアが再び敵対行動を起こすことへ警戒感を抱いているからだ。だから、今では残存する唯一の戦力であるクロスナイツを解散し、既にアグストリアに敵対する意思はない事を示せば、何とか他の条件を回避する事が可能ではないかと思うのだ」
組織的な戦争が不可能となれば、あえてアグストリア内に軍を駐留させることない。
シグルドはアグストリアの剣を折ることで、敵意がない事を示し、本国を説得しようとしたのだ。
「しかし、それでは・・・我々のアグストリアは戦う力を失います。万が一、グランベルが野心を顕にしてアグストリアの完全併呑に動き出したら、我々は黙ってそれを座視するしかなくなってしまいます」
「だが、今しかないんだ。今、グランベルの主力はイザークとの戦争を行い、佳境を迎えている。このままグランベル軍が戻ってきてしまっては、一部の反アグストリア派の諸侯がアグストリア征服を望んで兵を挙げるかもしれない。そうなっては手遅れだ。むしろ、イザークとの戦争が終結してない今の時期に我が軍を撤収させ、再び、アグストリアとグランベルの間に同盟を結んでおく必要があるのだ。一度、同盟を結べば、クルト王子(グランベルの盟主バーハラ王家の時期王位継承者)や我が父たちが蛮行を止めてくれるはずだ。そのためにはこの条件で何とか粘るしかない」
野心があるからこそ、軍を駐留させると言う条件を加えているのではないか?と思うが、恐らくはグランベル内でも意見が定まっていないのだろう。
シグルドはそれに乗じて、最低限の条件で両国間に安定を持ち込もうとした。
だが、その『最低限の条件』がラケシスの兄エルトシャンが育て上げた大陸最強の誉れ高いクロスナイツの解散なのだ。
親しい距離にいるラケシスにとってもそれは耐え難い事だ。
「だが、この条件にアグストリア側の同意が得られなければ、何の意味もない。また、これほど強硬な条件を出してきた事をマディノのシャガール王が知れば、激怒して再び戦いを仕掛けてくるかもしれない」
「たしかに・・・シャガール王がこの事を知れば、怒りに満ちて何をするかは分かりません」
グランベルに対する激しい敵意の持ち主であるシャガール王がこの話を知れば、今以上にグランベルへの怒りを増し、戦いを仕掛けてくる事も十分予想される。
それを警戒するシグルドは考えた末、このラケシスの部屋を訪れたのだった。
「ラケシス、今回の私の話についてエルトシャンの考えを聞きに行ってはくれないか?」
「・・・えっ?」
瞬時にラケシスの表情が沈んだものになる。
エルトシャンの名は彼女の心を激しく乱し、彼女の偽りの仮面の素顔を浮き彫りにさせる。
シグルドはその表情の変化を見つめていたが、あえて言及はしなかった。
「・・・この条件はあくまで私の希望だ。真にアグストリアに平和と安定を取り戻すための条件としてあくまで私が考えたものだ。しかし、私は万能でも全能でもない。この条件で本当に安定を呼べるかどうかの判断は私だけでは付ける事が出来ないのだ。だから、この話をエルトシャンに伝えてきて欲しいのだ。そして彼の考えを聞いてきて欲しい」
「そんな!?クロスナイツはエルト兄様が築き、鍛え上げたのです。そのエルト兄様がクロスナイツを解散させる条件を認めるとは思いません」
「だがらこそ、エルトシャンの考えが聞きたいのだ。彼がクロスナイツの解散を認めなければ、その時点で私の試みは意味を失う。また、認めてくれたとしても、シャガール王と交渉する際には、ある程度、根回しをしておく必要があるだろう。とにかく、まずはエルトシャンとの話し合いから始めなくてはならないのだ」
シグルドはエルトシャンならアグストリアの安寧のために協力を惜しまないと考えていた。
彼の中では金髪の友人と歩調を合わせ、グランベル本国、そして強硬な態度を取り続け、極めて好戦的なシャガール王と対抗しつつ、平和を取り戻そうと考えていた。
あくまで、彼個人の考えではあったが。
一方、ラケシスにとっては激しく心を揺さ振る話であった。
彼女にとってはシグルドの提案そのものも重大事であったが、何よりもエルトシャンとの再会と言う事態そのものが何よりも大きかった。
会いたくても会えなかった最愛の兄…
近くにいたいと言う自分の気持ちを拒絶した兄、しかし、それでも会いたいと欲する自分。
彼に認められようと自分を伸ばそうとしていた彼女。
様々な彼と彼女の間の愛と苦悩に苦しんでいたのが今のラケシスの本当の姿であった。
だが、今、再びエルトシャンに近づく、いや、距離を取り戻す機会が訪れた。
彼女にとってはアグストリアの平和も大事であったが、エルトシャンに会える事が何よりも大事であったのだった。
断る理由は何もなかった。
「行きます。私はシグルド様のお考えについて兄に聞いてきます」
「・・・ありがとう」
用件を伝えた直後のラケシスの驚愕と不安が混ざった表情とはうって変わり、決意に満ちた表情で応える。
その変わり方にシグルドは驚いたが、口と表情には出さず、そのまま詳細について彼女と話し合った。
「フィン!あなたにラケシスの護衛を命ずるわ」
「・・・は?」
ラケシスがエルトシャンに会いに行く事が決まったその日の夜。
フィンはエスリンに呼ばれ、ラケシスのジルベールへの道中の護衛を申し渡されたのだった。
あまりの突拍子もない命令にフィンも呆れた表情を隠せずにいた。
「私がラケシス様の護衛ですか?それは筋が違うとは思いますが・・・」
レンスター王国の騎士であるフィンがノディオン王族の護衛のために随伴するとはお門違いもいいことだった。
「だけど、今のノディオンには彼女を護衛できるような人材も兵もいないのよ。そうでしょう?」
しかし、今のラケシスの状況は確かに不憫だった。
現在、ノディオンの主だった騎士たちはエルトシャンとともにシャガール王を守護するためジルベールに駐留していた。
また、彼女に付き従っていたイーヴら三兄弟は現在、ノディオン城に戻って、当地の治安維持と戦で傷ついた王国の復興に陣頭に立って働いていた。
無論、側近たちの中にはノディオンから一緒に来た侍従などはいたが、ラケシスはノディオンの戦士が周りに一人もいない状況でアグスティにいるのだった。
これはノディオンの人々がエルトシャン・ラケシスとシグルドとの関係が親密である事を知っているからではあったが、その事を知らない人々には彼女がグランベルの人質になっているようにも見えるだろうし、逆に彼女が国を売ってグランベルに従属したとも見えるだろう。
そのため、様々な風聞に晒されている彼女ではあった。
このような周囲の状況にため、ラケシスがジルベールに赴こうとしても護衛がいないのだった。
「・・・ですが、私などよりも護衛に相応しい方はいらっしゃるでしょう。シアルフィのノイッシュ殿やアレク殿など・・・」
まだ、正騎士になって間もないフィンには、彼よりも早く騎士としての叙任を受け、シグルド配下で武勲を重ねていたノイッシュ・アレク等に対する引け目がある。
自分よりも格上の騎士たちを置いて、今やアグストリアとグランベルを繋ぐ橋となっているラケシスを護衛するなど、彼には考えられなかった。
前回の戦いの時はあくまで援軍と言う位置付けであったため、今回の事に抵抗を感じているフィンであった。
「でも、ここはあなたしかいないのよ」
「何故ですか?」
「今、グランベルとアグストリアの関係は非常に微妙なの。この状況でグランベルの騎士がラケシスの護衛に随伴したら、彼女の立場はさらにグランベル寄りのものと見られてしまうわ。だから、できるだけグランベルの騎士じゃない者が彼女の護衛をするのが一番なの?」
「それはそうですが、私たちレンスターも今回のアグストリア進駐に加わってしまいました。立場はグランベルと同じでは?」
「でも、実際、グランベルとアグストリアの問題である事には変わりないわ。まだ、私たちレンスターの者が護衛する方が良い筈。・・・それにしても、やけに拘るのね。彼女一人でジルベールに行かすと言うの?」
「そういう訳では・・・」
「・・・と言う事で、フィン、改めて命ずるわ。ノディオン王女ラケシスを護衛して、ジルベールに行きなさい。これはキュアンの命である。」
「・・・分かりました・・・」
彼とは長い付き合いであるエスリンですら見た事がない戸惑いに満ちた表情でフィンは申し出を受け、ラケシスの護衛を承知したのだった。
部屋に戻るべく廊下を歩くフィンの頭の中は既に今回の件の事でいっぱいだった。
一人の騎士として、今回の護衛の任を果たせるかと言う懸念もあったが、何よりも彼の頭を占有していたのは、守るべきプリンセスへの思いだけ。
そして、恐怖。
再び、ラケシスを守る事が出来る事に幸せを感じつつも、彼女が思いを寄せるエルトシャンと彼女が再会する事に軽い嫉妬を覚える。
実の兄妹に嫉妬を覚える事自体が馬鹿馬鹿しいと頭の中では分かってはいたが、彼はその感情に囚われ続ける。
ジルベールに到着したらラケシスとエルトシャンが重なる光景が目の前で繰り広げられるかも知れない。その事が怖かった。
様々な感情と予測が無骨で純粋な青年騎士の心に暗い影を落とす。
(今までなら命令を受けたら、それを喜びとして心躍ることが出来たのに。今はなんて憂鬱なんだ・・・)
ふと、廊下の脇に窓があり、月の光が石畳の廊下を照らしていた。
彼は足を止め、夜空に浮かんだ月を見上げる。
見事な満月だった。誰もが目を奪われるような銀白の月。
思わず、彼は手を伸ばしてみる。
その満月に彼女の笑顔を写し重ねながら。
「なぜ、フィンに行かすと申し出たんだい?エスリン・・・」
「彼はラケシスの護衛にうってつけの男だからよ」
エスリンはフィンが退出した後、戻ってきたキュアンと共にベットに入っていた。
キュアンはエスリンからラケシスの護衛にフィンを推薦する話を聞かされ、それを了承した後、シグルドとの話し合いに一度退出した。そして、今、戻ってきてエスリンと二人だけの時間を持ったのである。
「確かにフィンは我々の中で一番ラケシスと接してきたからな。あいつなら適任かもしれないが・・・」
だが、キュアンは彼女が何か別の意図を持ってフィンを推薦したように思えてならない。
確かにエスリンは今回の護衛の件、誰よりもフィンが適任と思ったからこそ、キュアンに申し出た。
しかし、もう一つ、彼女だけの思惑も存在した。
それはラケシスとフィン、二人に多大な影響を与える男、エルトシャンに彼らを引き合わせる事。
彼らの変化のない鬱屈の日々を打破させるには、今回の件はまたとない機会だった。
だからこそ、ラケシスとフィンを共に行かそうと考えた。
たとえ、悲しみの結果に終わったとしても、二人には答えに辿り着いて欲しかったから。
「エスリン、何か悩みでも?」
「私には悩みなんてない。ただ、気になるの… 出口のない、いや、出口の方向が分からない森に迷い込もうとしている人達のことが…」
エスリンは素直で表裏がない女性で、隠し事や抽象的な言い回しを好む性格ではなかったが、重大で深刻な懸念は周囲の人間に不安を与えないよう自らの内に秘そうとする部分がある。
夫であるキュアンはそんなエスリンの深く理解しているがため、あえて彼女には今回は何も尋ねなかった。
自分に相談して解決する問題ならエスリンはすぐに話してくれているはず、しかし、彼女が話さないという事は、彼女の悩みは自分ではどうしようもない事柄であろうから。
「私に出来る事があったら何でも言ってくれ」
これが今の彼女に言えるキュアンの一言であった
「ありがとう、キュアン…」
自分自身でも恥ずかしい。
これだけ優しい人が自分を心配してくれている。
自分は他人への御節介にも似た理由で悩んでいるだけなの、申し訳ない感じがする。
だが、愚かしく見えても当人たちは深刻な状況に陥っている。
それを見ているだけなど彼女には出来なかった。
二人はその後、他愛のない話を愉しんだ後、夜の営みへと滑り込んでいった。
(私・・・会ってどうするというの?)
一方、シグルドと話を終え、一通りの仕事を終えた後、自らの寝室に戻ったラケシス。
日中着続けた服も脱がずに彼女はベットに突っ伏した。
そして意外に味気ない毛布の感触を面で受けながら、物思いに耽る。
多分、エルトシャンは自分を再び拒絶するだろう。
理性ではなく、直感で彼女はそう思った。
自分は自分のできる範囲でエルトシャンに再び認めてもらおうと勤めている。
しかし、それをどれだけ重ねても何かが自分とエルトシャンの間にそびえている様に思えた。
エルトシャンと自分を分断している壁のようなものが。
(私はただエルト兄様の近くにいたいだけなのに・・・)
彼と結ばれようとは思っていない。それは禁忌であるし、求められるものではないからだ。
彼女は妹のままでいい。エルトシャンの近くにいる事ができればそれでよかった。
既にあのエルトシャンとの再会と別れの時から半年。
もうラケシスは我慢が出来ない、会いたいという自らの欲求に逆らうことなく従おうとしていた。
エルトシャンとの思い出、彼の様々な表情が頭の中を駆け巡り、彼女は内なる世界に引き込まれていく。
普段なら、楽しむべき羽毛の柔らかな感覚に身を委ねることなく、彼女は明日に向かって眠りについた。